黒部ダム
本州に残る数少ない秘境と言える黒部峡谷。その豊かな森林資源を目当てに黒部渓谷沿いに林道が欅平まで切り開かれたのが明治37年。その後、さらに延長されて祖母谷、祖父谷まで達する。
のちに、木暮理太郎と中村清太郎によって欅平から仙人谷出合までの遡行に初めて成功したのが大正8年。さらに冠松次郎が仙人谷から十字峡を経て平の小屋までの黒部渓谷完全遡行に成功したのが大正14年のことである。
昭和11年、軍需産業の電力確保の為、旧日本電力が黒部川第3発電所の建設を開始する。仙人谷にダムを建設する為、資材運搬用と取水路用の2本のトンネルを掘ることになる。大量の資材運搬の為、宇奈月から欅平まで軌道が敷かれ、トロッコが走るようになる。そこから先はボッカにより荷物を運ぶため、まず300mを一気に登るつづら折りの道が作られ、そこから仙人谷までは延々と続く水平の道が付けられた。
標高950m付近を入りくんで進む道は、当初60cmほどの幅だったが1mまで広げられる。中には丸太を数本太い針金で束ねただけの岸壁にへばりつくようにして渡る桟橋や吊り橋などの場所もあり、ここを作業員は平均50kg、最大150kgもの荷物を背負って通った。その為、足を踏み外して転落死した者は数十人に上るという。
途中にある志合谷には、第三発電所建設用に五階建て鉄筋コンクリートの宿舎があったが、凄まじい泡雪崩によりその二階以上が対岸まで吹き飛ばされ、一度に75人もの犠牲者を出している。
この先の阿曽原谷と仙人谷の間約1kmの地下では、トンネル掘削時に今も白い湯気を吹き出している高温の花崗岩帯に突き当たる。当時岩盤の表面温度は160℃を超え、作業員は黒部川からポンプアップした冷水をホースで岩盤にかけながら掘削するが、水は瞬時にして熱湯となり作業員に襲いかかる。火傷をしないよう掘削する坑夫に水を掛ける坑夫がおり、更にその水掛け坑夫に水を掛ける坑夫と延々十数人の水掛坑夫を配置したという。
また、ある時には岩盤破壊用のダイナマイトが自然発火し、多数の死者を出す事故が発生した。火薬類を取扱う場合、70℃以上の高温になると自然誘発する可能性がある。
様々な困難を乗り越え、工事は昭和15年11月21日に完工する。その後、さらに上流部に黒部第4発電所を建設することになる。