東北の旅

青森県

大間崎(大間町)
本州最北端の岬で、「ここ本州最北端の地」の碑が建っている。晴れていれば海の向こうに函館山を望むことができる。北海道までは直線距離にして約18km。沖には大間崎灯台が建つ弁天島が見える。この灯台は、「日本の灯台50選」に選ばれ、1921(大正10)年初点灯。1952(昭和27)年の十勝沖地震で壊れ、翌年再建されたのが今の灯台。石碑の横には「マグロのモニュメント」が建つ。

仏ヶ浦(佐井村)
斧の形をした下北半島の刃の部分、福浦と牛滝の間約3kmの海岸を呼ぶ。アイヌ語で仏宇多(ホトケウタ)、仏のいる浜の意味が由来とされる。青白色の奇岩が神仏のように群落する。それぞれ名前を付けられたものもあり、五百羅漢、如来ノ首、十三仏、観音岩などがある。遊覧船がある。

尻屋崎(東通村)
下北半島の東北端、岬付近の海域は、岩礁が多く、潮の目にもなっているためにむかしから船の墓場として恐れられてきた。それとは対照的に、尻屋崎灯台付近には緑の草原に牛馬が放牧され、牧歌的な風景が楽しめる。中でも年中放牧される寒立馬は有名。

尻屋崎灯台(東通村)
明治9年10月20日初点灯。高さ33m。設計はR・H・ブラントンで、レンガで造られた白亜の灯台。また、電気灯台発祥の地でもあり、明治34年12月にアーク灯を初めて灯した。現在、日本ではアーク灯は使用されていない。昭和20年に数回の空襲を受け、灯台の各施設も破壊され、職員も1名殉職するという悲しい歴史をもつ。
  
恐山(むつ市)
日本三大霊山(恐山、高野山、比叡山)、日本三大霊場(恐山、白山、立山)、日本三大霊地(恐山、立山、河原毛)に上げられる地で、862(貞観4)年に慈覚大師が開山したと云われる。下北半島のほぼ中央に位置し、標高828mの大尽(オオツクシ)山など、8つの山々(蓮華八華)と、その山に囲まれた盆地の総称になる。盆地は直径4kmほどのカルデラの底部に辺り、そこに宇曽利山湖がある(写真右)。コバルト色水をたたえる宇曽利山湖の北岸一帯には、いたるところに硫気孔や間欠泉が噴出し、鼻をつくほどに硫気臭がする。ここは死者の魂が集まるところといわれ、イタコの口寄せで知られる恐山菩提寺がある。

  
恐山菩提寺(むつ市)
円仁が862(貞観4)年に地蔵尊を安置したのが始まりと伝えられている。その後、一度この寺は閉山し、1530(享禄3)年田名部円通寺(曹洞宗)が修復、現在も管理している。

宇曽利山湖(むつ市)
火山爆発によってできたカルデラ湖(恐山は休火山)。火口湖特有の強酸性湖で、昔霊場を探す円仁が山野で道に迷った時、一羽の鵜が魚をくわえて山の上に飛んでいくのを見てこの湖を発見したと云われる。北東に流れ出す川は三途の川と呼ばれ、霊界と俗界の分かれ目とされ、朱塗りの太鼓橋が架かっている。

恐山温泉(むつ市)
菩提寺の境内に4つの温泉が沸きだしており、これらを恐山温泉と呼び、それぞれ、古滝ノ湯、薬師ノ湯、冷抜ノ湯、花染ノ湯と呼ばれている。

寺山修司記念館(三沢市)
寺山修司の母より三沢市に寄贈された遺品を保存公開するために約3年の歳月を掛けて建設された。寺山修司と親しかった粟津潔氏のデザインをもとに九條今日子氏をはじめとする元天井桟敷のメンバーなど数多くのアドバイスを得て平成9年7月開館。展示棟とホワイエ棟が渡り廊下でつながり、上空から見るとテラヤマ演劇・映画の小道具として登場した「柱時計」を彷彿させる。

青森ベイ・ブリッジ(青森市)
1994(平成4)年に完成した青森市街地とフェリー埠頭方面を結ぶ橋。全長約kmの斜張橋で、夜はライトアップされ、時間帯によって色が変わる。歩道があり、歩いて渡ることができ、歩道の両側には展望用のバルコニー、橋桁の下には展望プロムナードがあり、青森港や遠くは八甲田方面の眺めを満喫できる。

三内丸山遺跡(青森市)
江戸時代から知られる遺跡で、縄文時代前期から中期(約5,500〜4,000年前)の大集落跡や平安時代の集落跡、中世末(約400年前)の城館跡の一部が発見されている。
特に縄文時代の大集落跡からは、たくさんの竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、掘立柱建物跡などが見つかっている。さらに大量の遺跡からヒスイや琥珀、黒曜石が見つかり、遠方との交易があったことを物語る。学術的に貴重な遺跡。

キリストの墓(新郷村)
ゴルゴダの丘で磔になったはずのキリストは、実は死んだのは弟のイスキリで、キリストはその後、日本に来て108歳で死んだらしい。妙にリアルな話だが、今では周辺を公園に整備して、ちょっとした観光地にしてしまっている(笑)。
   
階段国道(三厩村)
日本で唯一の階段国道。車が走れない国道。しっかり標識も建っている。竜飛バス停と竜飛崎灯台を結ぶ総延長388.2m、標高差70m、362段の階段です。国道に認定されたのは昭和49年で、国道339号線は、弘前市を起点とし、津軽半島の西海岸沿いを通って三厩村役場をつなぐ道路。国道に指定されるまでは、階段はなく、急な坂道だったのが、その途中には小中学校があり、学校の登下校時に怪我をしないようにと階段が整備されたそうです。この階段国道に至る道も人がようやくすれ違えるくらいの細い道で、民家のすぐ横を通っているのが不思議な感じがします。

竜飛崎(三厩村)
津軽半島の突端、北緯41度15分に位置する。津軽海峡を隔てて向かい合う北海道の白神崎との距離は約20km。岬付近は標高100m前後の高台になっており、灯台や青函トンネル記念館などが建つ。竜飛の地名は、アイヌ語のタプコピ(遠く離れた断崖)に由来し、本州で一番最後までアイヌが住んでいたところと云われている。

竜飛崎灯台(三厩村)
津軽海峡の西口にあり、潮流の早い海の難所でもある竜飛崎で昭和7年7月初点灯。高さ13.7mの白亜の灯台。無人化が進む灯台の中で今も滞在勤務を行っている。
  
斜陽館(金木町)
文豪太宰治が生まれ、幼少期まで過ごした建物で、父は津島源右衛門といい、明治の大地主だった。この建物は入母屋作りで、明治40年に米蔵にいたるまで日本三大美林のヒバを使い、当時のお金で工事費約4万円をかけて造られた。以前は旅館として宿泊できたそうだが、今は記念館として中の見学ができる。

千畳敷(深浦町)
大戸崎付近に広がる岩だたみで、波浪により浸食された岩盤が1792(寛政4)年の地震で海面から約2m隆起したもの。

サンタクロース村(岩崎村)
岩崎村は、サンタクロースのふるさとフィンランド国とサンタクロース協定を結び、「愛と思いやり・そして希望を」のサンタクローススピリットを日本に広める拠点として、平成8年7月にオープン。この時もサンタさんが子供達と遊んでおりました(夏だけど)。コテージもあり、宿泊も出来る。

十二湖・青池(岩崎村)
どうしたらこの色が出るのだろうと思うくらいに青い色をしている。日本一青い池と思う。

日本キャニオン(岩崎村)
十二湖み向かう道の途中に見えるのが日本キャニオン。塊状で層理のないさまざまな形の巨大な白い岩がアメリカ・コロラド高原のグランドキャニオンを思わせることから1953(昭和28)年10月22日、当地を訪れた探検家岸衛氏(当時、国立公園審議委員)によって名付けられた。しかし、グランドキャニオンと比較したら。。。。

弘前ねぷた(弘前市)
大小約60台もの扇ねぷた(燈籠)と組ねぷた(人形)が市街を練り歩く。青森のねぶたが人形を組み合わせた組みねぶたであるのに対し、弘前は扇型の骨組みに武将の絵を描いた扇ねぷたと呼ばれる。弘前は空襲に合わなかったため、市街地が青森のように広い道路でないため、その分、ねぷたも小さめだが、また違った趣のある祭り。

日本一の雪だるま(黒石市)
黒石市では、市民参加で「数で日本一」、「高さで日本一」の雪だるまを製作。95年に山形県大蔵村で達成された高さ29.43mを抜き、2002年2月21日に31.425mの日本記録を見事達成(何と10階建てビルに相当)。私が訪れたのが27日だったので、少し低いかも知れない(笑)。胴体の直径は約45m。使った雪の総量10tトラックで約1万1千台分。凄い大きさだと思うけれど、これでも世界一ではないらしい。02年2月訪問

おとめの像(十和田湖町)
高村光太郎の傑作で、十和田湖のシンボルともいえる像。高さ2.1mで二人の裸婦が向かい合うブロンズ像で、1953(昭和28)年に十和田開発の功労者(大町桂月、武田千代三郎青森県知事、小笠原耕一村長)3名の顕彰の意味で作られた。製作には、1年の費やした。台座には智恵子の故郷福島産の黒御影石が張られている。

十和田神社(十和田湖町)
おとめの像裏手の木立の中にあり、807(大同2)年坂上田村麻呂の創建と伝えられ、明治の神仏分離までは伝説上の人物南祖坊が祭神だったが、今はそばの祠に移され、伝説にちなむ鉄ワラジが奉納されている。(現在の祭神は日本武尊)

十和田湖(十和田湖町)
面積59.8km2、周囲44km、最大深度327m。2重式カルデラ湖で、高山性の貧栄養湖のため、生物はあまり棲んでいない。紅葉が美しく、特に十和田湖から流れ出る奥入瀬川の紅葉は一見の価値がある。

奥入瀬渓流・銚子大滝(十和田湖町)
奥入瀬渓流最大の滝で、高さ7m、幅20mある。十和田湖の子の口から下流1.4kmほどの所にあり、ここより下流にて変化に富んだ渓流の美しさを見せる。
秋田県

八幡平・大沼(鹿角市)
火口湖ともいわれ、楕円形の湖の周辺は遊歩道が整備され、水芭蕉やワタスゲなど高山植物が見られる湿原になっている。後生掛温泉の北方1km、近くに自然センターなどがある。

田沢湖(田沢湖町)
面積26km2、周囲20km、最大深度423.4mで、日本一の深さを誇る。田沢湖には神秘的な辰子姫伝説が伝わる。この湖には幻の魚「国鱒(クニマス)」が棲んでいたが、昭和15年に玉川毒水を水力発電のために引き込んだがため、それ以来絶滅してしまった。

康楽館(小坂町)
1910(明治10)年8月16日に小坂鉱山の厚生施設として建てられた。現在では、日本最古の現役木造芝居小屋。柿落しは尾上松鶴一座による大阪歌舞伎が行われた。白亜の西洋建築は鉱山の黄金時代の面影が偲ばれる。中に入ると、花道や切穴、回り舞台に昔ながらの桟敷席など、全国でも屈指の典型的明治期の芝居小屋の形を残す。一度、芝居を見学したんですが、平成14年には国指定重要文化財になる。

河原毛地獄(湯沢市)
その昔、硫黄鉱山があった。古くから信仰の山として開け、恐山、立山とならび、日本三大霊地に数えられた。深い森林の中でここだけ白い奇岩怪岩が立ち並び、硫黄や水蒸気が至る所から噴き出す姿は地獄の形容そのもの。
岩手県

琥珀博物館(久慈市)
国内最大の琥珀の産地で約8700万年前の恐竜時代の琥珀を産出する。琥珀は太古に繁茂した樹木の樹脂の化石で、中でも虫入りの琥珀は学術的にも貴重な物とされている。琥珀の成因や歴史の他に坑道跡なども見学できる。

黒崎灯台(普代村)
「日本の灯台50選」にも選ばれた白亜の灯台で、三陸海岸の景勝地・黒崎に建つ。海抜130mの断崖に建ち、南側には断崖絶壁が続き、対して北側はなだらかな海岸線が続く。近くには砲台跡や北緯40度のシンボル塔がある。昭和22年初点灯。

北緯40度のシンボル塔(普代村)
普代村が北緯40度に位置するために設けられたシンボル塔。地球全体の繁栄と平和への願いが込められたこの塔は、高さ4mの地球儀型。人が近づくとセンサーが働き、地球儀が回転する。

北山崎(田野畑村)
陸中海岸随一の景勝地で、高さ180mにもおよぶ断崖絶壁が続く。俗に"海のアルプス"とも呼ばれる。陸中海岸は宮古以南が沈降海岸、北半分が隆起海岸を形成する。

鵜ノ巣断崖(田野畑村)
北山崎と並ぶ三陸海岸の断崖絶壁。北に向かって五層の断崖が連なる。付近の赤松林が美しい。

櫃取湿原(岩泉町)
青松葉山・安部館山・黒森山に囲まれた標高1000m前後に広がる湿原。ブナやミズナラ、ダケカンバの林の中でミズバショウやザセンソウなどが白い花を咲かせる。昭和58年に「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれる。それは別にしてもいつまでもこのままであってほしい素朴で静かな湿原。全域が国有林であり、自然環境保全地域に指定されているので、動植物などの採取が全面的に禁止されている。

浄土ヶ浜(宮古市)
天和年間(1681〜1683)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられる。昭和30年5月には国立公園に指定される。何の変哲もない砂浜にここだけ白い奇岩が並び立つ。

松川地熱発電所(松尾村)
1966(昭和41)年10月に日本重化学工業株式会社が日本で初めての地熱発電所として運転開始。多くの地熱地域が生産井から蒸気と熱水が混じって噴出するが、ここは蒸気だけが噴出する唯一の蒸気卓越型地域。左に見える白い冷却塔は高さ46m、直径45mある。一般の火力発電所のように蒸気を作る燃料(石油、石炭など)が入らず、環境に優しいエネルギー。簡単な発電システムの説明もあり、写真手前のPR館でも発電の仕組みの説明や売店がある。
  
五色沼(松尾村)
八幡平は岩手県側、我が国最大の硫黄鉱山があった旧松尾鉱山の近くで、御斎所湿原の中にある。すぐ隣には御在所沼があり、遊歩道が整備されている。五色沼は直径45mのほぼ円形の沼で、水深11m。湖底から絶えず湧水が出ており、その水が御在所沼に流れ込んでいる。酸化鉄を多く含んだこの沼は、季節や環境によりに色を変える。

姫神山(玉山村)
姫神山は花崗岩で形成された山で北上川をはさんで岩手山と相対する位置にある。また、山容も男性的な岩手山に比べ、なだらかな女性的な姿を見せる。

鳥越の滝(雫石町)
この滝は鳥しか越えられないというところから名付けられた。滝の上流部からも幾つかの噴気が見られ、温泉が流れ込んでいるらしい。が、滝壺には降りられない。

小岩井農場(雫石町)
岩手山麓に26km2にもおよぶ広大な面積を占める民営最大の農場。1891(明治24)年に小野、岩崎、井上の3人で始めた農場で、3人の頭文字をとって小岩井と名付けた。農場の一部は観光用に公開され、寝台車を利用したSLホテルなどがある。

石割桜(盛岡市)
かつてこの場所には南部藩の家老の屋敷があり、庭石の割れ目に種子が飛び込み、成長とともに割れ目を押し広げてきたと云われている。今は盛岡地方裁判所の前庭にあたる。樹齢350年余のエドヒガンで幹囲3.9m、樹高10.6m。石の周囲は約22mある。大正12年に国指定天然記念物。

三ツ石神社(盛岡市)
伝説によると、昔この地方に羅刹(ラセツ)という鬼が住んでいて付近の住民を悩まし、旅人をおどしていました。そこで、人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕らえてもらい、境内にある巨大な三ツ石に縛り付けました。鬼は二度と悪さをしないし、二度とこの地方にはやってこないことを誓い、約束のしるしとして三ツ石に手形を押させて逃してやりました。この岩に手形を押したことが岩手の県名の起源と言われ、鬼が再び来ないことを誓ったので、この地方を不来方(コズカタ)と呼ぶようになったと伝えられています。鬼の退散を喜んだ住民達が幾日も踊り、神様に感謝した踊りがさんさ踊りの起源と云われています。(神社石碑より)

五百羅漢報恩寺(盛岡市)
南部の曹洞宗寺院を統率する寺として建てられたもので、五百羅漢で知られている。本堂左手の羅漢堂内に木造漆塗りの像が499対安置されているが、中にはマルコポーロ、フビライもあり興味深い。また、この周辺は石川啄木が盛岡中学時代に文学に親しみ始めた頃、好んで訪れたところで、彼の処女詩集「あこがれ」にも収められている。

原敬記念館(盛岡市)
大正時代に平民宰相として活躍した原敬氏の生家とそれに隣接して建設された記念館があり、政界の貴重な資料や原敬日記、遺品などが展示されている。原敬はここで15歳まで暮らした。

さんさ踊り(盛岡市)
東北四大祭りは有名ですが、夏の盛岡の祭りと言えば、さんさ踊り。踊り手二万人の浴衣姿の踊り手が約二万人と、1500本もの笛や延べ1万個の太鼓がビル街に鳴り響く。さんさ踊りの由来は三ッ石神社の巨岩伝説に由来し、昔、悪事の限りをはたらく鬼がいて、その鬼を神が退治し、この地から逃げ去ったのを里人達は喜び祝い、三ッ石のまわりをサンサ、サンサと踊ったのが始まりと言われる。踊りに使われる太鼓の数は日本一とも言われている。

志波城跡(盛岡市)
延暦22(803)年に坂上田村麻呂によって造営された陸奥国最北の城柵でした。高速道路の建設時に発見される。現在、少しずつだが復元工事がされている。99年8月訪問。

徳丹城跡(矢巾町)
平安時代に当時の陸奥国の人々(蝦夷・エミシ)を管理する為に作られた役所跡。盛岡市にある志波城が雫石川の氾濫で被害を受け、移転を余儀なくされ、その資材を利用し、移し建てられた城。建築時期ははっきりしていないが、812(弘仁3)年に征夷大将軍・文室綿麻呂によって造られたと言われ、律令制度最後の城柵です。その作業には2000人もの鎮兵が動員されたという。遺跡はほぼ正方形で、一辺が約350mほどある。近くには徳丹城から出土した遺品や歴史を説明する歴史民俗資料館があり、詳細の説明がある。また、資料館の横に曲がり家が移築保存されており、中の見学も出来る。国指定史跡。

早池峰神社(大迫町)
早地峰神社は、早池峰山の登山口の4ヶ所(岳・大出・江繋・門馬)にあったと云われており、特に岳地区と大出地区(遠野市)には藩政時代に新山宮(現早池峰神社)の別当寺として妙泉寺が建てられ、盛岡藩の東の鎮山・早池峰山の祈願所として大きな影響力を持っていた。しかし、明治の神仏分離によって妙泉寺は廃寺となり、新山宮は早池峰神社として今に残っている。昭和47年岩手県指定有形文化財。

早池峰神楽(大迫町岳・大償)
500年以上の伝統をもつと云われる非常に古い神楽で、大償と岳の2つの集落の神楽座を総称して呼ぶ。早池峰山信仰から修験山伏が行った祈祷の舞が神楽の始まりと云われている。舞で使用する山の神の面が大償では「阿(あ)」に対し、岳では「吽(うん)」の形をとっていることから、両神楽が対を成しているといわれている。舞そのものや伝承のされかたに非常に古い型が残すことから、昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。例大祭の時に早池峰神社の境内で岳・大償ともに奉納される。
  
早池峰例大祭(大迫町)
山伏に先導された神社の御輿と数十体の権現様のお通り、童子らによるシンガクの披露と、長い行列となって岳集落を練り歩く。神楽殿では岳・大償両神楽の奉納が行われる。

早池峰神社(遠野市)
祭神は瀬織津姫神で、遠野市附馬牛町に鎮座する。早創は806(大同元)年と古く、嘉祥年間に天台宗の慈覚大師がこの地に妙泉寺を建てたと言われる。その後、明治の神仏分離により、早池峰神社と改称する。

旧小原家住宅(岩手県東和町)
建築が18世紀中頃と伝えられる標準的な農家の形態の曲がり家です。母屋の棟に対して直角に馬屋が張り出している。当時は農作業にも重要な役割を果たした馬を大事にしていた事がうかがえる。訪問すると、町のおばさん達が迎えてくれて、訪問客の相手をしてくれる。アットホームな雰囲気が好感を持てる。入場料も無料。昭和51年8月に現在地に移築修理されました。国指定重要文化財。(99年8月)

丹内山神社(岩手県東和町)
この神社の創建は約1200年前。上古地方開拓の祖神、多邇知比古神を祀っている。承知年間(834-847)には空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置、「大聖寺不動丹内権現」と称し、以来、平泉の藤原氏や安俵小原氏、盛岡南部氏などに手厚く加護され、現在に伝えられている。観光客もあまり来ないが立派な神社。99年8月訪問。

胎内石(岩手県東和町)
丹内山神社の敷地内にあり、荒覇吐(アラハバキ)大神の巨石とも言われ、1300年以前から当神社霊域の御神体として、大切に祀られている。岩の隙間を壁面に触れずにくぐり抜けると大願成就すると言い伝えられている。99年8月訪問。

不思議坂(東和町)
道に立つと、なだらかに上っているように見える坂道だが、ボールを静かに置いてみると、ゆっくりと坂を上り始める。車もギアをニュートラルに設定して、ブレーキを外すとゆっくりと坂を上り始めるではないですか!??以前、マニュアル車で試した時には時速30km/h近くまでスピードが上がり、まさにミステリー(地元ではミステリー坂とも呼ばれる)。丁寧に、車のスタート地点を示す看板まであります。何とも不思議な道です。

釜淵の滝(花巻市)
花巻温泉から台川沿いに遊歩道が整備されている。滝壺が釜の形をしている所から名前の由来がある。高さ8.5m、幅30mほどの円形の岩から水が流れ落ちている。賢治の作品「台川」の中にも出てくる。

未来都市銀河地球鉄道(花巻市)
花巻駅から徒歩5分くらいのところにある壁画。縦約10m、横60m。ルミライトカラーという、ブラックライトの紫外線のみに発光、発色する特殊蛍光塗料によって描かれた壁画で、賢治の神秘的、幻想的な宇宙感をイメージしている。昼間は見えない。

清水寺(花巻市)
807(大同2)年坂上田村麻呂が戦で効験のあった十一面観音像を祀ったことが始まりとされる。写真は昭和2年建立の楼門。

蘇民祭(岩手県花巻市)
毎年1月2日に胡四王山で行われる伝統行事。上半身裸の松明を持った一行が麓から神社まで行進してくる。それにつづき、年男の人による餅まきが行われ、続いて蘇民袋の争奪戦。上半身裸の男達で、蘇民袋を奪い合う。団子状態の中に水を掛けたりしながら、蘇民袋を麓まで持っていった者が勝利する。この蘇民祭を皮切りに、岩手県内各地で蘇民祭が繰り広げられる。(99年1月)

胡四王神楽(花巻市)
その起源を康保年中(964−968)まで遡り、胡四王山頂にある胡四王神社には古い獅子頭も伝えられる。県指定無形民俗文化財。(99年1月)

ポランの広場(花巻市)
宮沢賢治が羅須地人協会時代の教え子から依頼され設計したが、当時はそのユニークさゆえに実現できなかった日時計花壇と南斜花壇が再現されている。胡四王山の中腹、宮沢賢治記念館の南側の斜面で、イーハトーブ館に通じる。

羅須地人協会(花巻市)
宮沢賢治は大正15年に約4年間の教師生活を終え、花巻農学校を退職し、理想の農業を行うために宮沢家の別宅だったこの建物で生活を始める。そして、近くの畑で自ら農作業をし、羅須地人協会をつくり、近くの若者を集め、科学、土壌、肥料、農民芸術を講義し、農業指導を行った。しかし、その生活も長くは続かず、賢治は病に倒れる。賢治の死後、この建物も人の手に渡り、元あった場所から移動してしまう。花巻農学校も賢治の死後に移転することになり、今の場所に移るが、その敷地内に偶然にも別宅が移築されており、以後、羅須地人協会として整備、公開されている。今も入り口の黒板には「下ノ畑ニオリマス」の文字が書かれている。

賢治詩碑(花巻市)
現在、花巻農学校の敷地内にある羅須地人協会が存在したゆかりの場所。詩碑は石巻産稲井石に「雨ニモマケズ」の後半が高村光太郎の書で刻まれている。

林風舎(花巻市)
店内は賢治の作品をモチーフにした商品が並び、2階は喫茶店になっています。日曜の15時からはミニコンサートを拓いています。駅から近く、列車待ちに一息にぴったりの場所。オーナーは宮沢賢治の親戚にあたる方です。

同心屋敷(花巻市)
1591(天正19)年、豊臣秀吉による九戸政実攻略後、浅野長政配下の一隊が南部氏に仕え、花巻同心組となり、当初花巻城の東、馬場口御門下に居住していたが、1680(延宝8)年に向御組町(現在の桜町)に移された。当時は奥州街道を挟んだ100間(約180m)の間に、東西15軒ずつ30軒が配されたが、今では2軒のみが移築復元されている。いずれも江戸末期に建てられたもの。

胆沢城跡(水沢市)
平安時代初期、蝦夷(エミシ)征討の根拠地として建設された城柵。その築城は802(延暦21)年に坂上田村麻呂によって造られた。造営後間もなく、鎮守府を多賀城からここに移され、以後東北経営の拠点として利用された。

水沢市埋蔵文化財センター(水沢市)
胆沢城跡の外郭南門から南へ約150mの南大路すぐ東側にある。鉄筋コンクリート3階建てで、平成5年にオープンした。中では胆沢城の歴史や遺品の紹介。蝦夷の生活など現在わかっている範囲で説明している。古代東北の民、蝦夷の謎はまだまだ多い。

厳美渓(一関市)
栗駒山を源とする磐井川が壮大な柱状節理を示す石英粗面岩の河床を浸食し、約2kmにわたって甌穴(オウケツ・ポットホール)・滝・奇岩・淵の連なる渓谷美を形成する。すぐ近くには名物の郭公だんごの店がある。
  
中尊寺(平泉町)
天台宗の東北大本山で、寺伝によると850(嘉祥3)年に天台の高僧・慈覚大師円仁によって関山弘台寿院というお寺が開かれたことに始まる。そして、859(貞観元年)に中尊寺と改めた。12世紀初め、奥州藤原氏の初代清衡公が、前九年・後三年の合戦で亡くなった御霊を慰め、仏教の教えを元に平和な国を築くため、1105(長治2)年中尊寺の造営に着手する。金色堂(写真右)は1124(天治元)年の造立で、中尊寺創建当初の唯一の遺構。本堂のご本尊は阿弥陀如来で、1909(明治42)年再建の建物。
  
達谷窟(平泉町)
801(延暦20)年坂上田村麻呂の「東征」に対抗して蝦夷(エミシ)の阿弖流為(アテルイ)がたてこもったと伝えられる岩窟。勝利を得た田村麻呂は北天をつかさどるとされる毘沙門天の加護に感謝して京都の清水寺を模した毘沙門堂を建立。現在の毘沙門堂は1961(昭和36)年再建のもの。岩面磨崖仏は前九年の役の後、源頼義が彫ったものとされる。一般には大日如来像と云われている。
山形県

上山城(上山市)
室町時代初期の応永年間に虚空蔵山に高楯城を築いたのが始まりとされ、1535(天文4)年武永義忠が新たに少し離れた丘陵天神森(今の月岡の地)に築いたのが現在の上山城の地という。その後、廃城になり、江戸時代になって復活したが、明治になって取り壊されてしまい、現在の城は1982(昭和57)年に完成したものである。最上階からは蔵王連峰の上山盆地を一望でき、蔵王連峰を望むことができる。

東根の大ケヤキ(東根市)
東根市東根小学校の敷地内にある。このケヤキは幹の周囲が15.7m、樹高は26mで樹齢は1000年以上と言われ、日本最大級とされ、ケヤキでは、唯一国指定天然記念物になっている。この地は1347(正平2)年に築かれた小田島城本丸跡といわれ、当時そこに2本のケヤキが残されていたが、1885(明治18)年に1本が枯れ、残されたものも、主幹の上部がなく、基部が空洞化しているものの、樹勢は旺盛。
  
山寺(山形市)
山寺(宝珠山立石寺)は、860(貞観2)年慈覚大師によって延暦寺の別院として開基された霊場。本堂となる根本中堂には、本山である比叡山延暦寺(天台宗)より移し灯した「不滅の法灯」が千百余年、ほのかな光を放ち続けている。宝珠山全山が境内となっており、奥の院まで千十五段の石段が続く。
  
出羽三山神社(羽黒町)
祭神は伊弖波(イザナミ)神で、2446段余の石段を登りつめ、朱塗りの鳥居をくぐると茅葺き屋根の三神合祭殿が現れる。一般に羽黒山神社と呼ぶ。本来は出羽神社のみが鎮座していたが、今は三神合祭殿となっている。五重塔(写真右)は国宝に指定されており、一ノ坂を登る手前にある。杉木立の中に囲まれ、静かな佇まい。柿葺、三間五層の素木造で、東北最古の塔。1372(文中元)年再建のものと伝えられる。

月山神社(朝日村)
祭神は月読神。創建年代は不明で、古くから修験場として信仰されていた。月山頂上にあり、1914(大正3)年に官幣大社となったが戦後国の管理から離れた。鳥居より中は神域の為、撮影禁止でした。
湯殿山神社(朝日村)
祭神は大山祗神。湯殿山の中腹、梵字川の河畔にある。むかしから現在まで社殿はなく、温泉とそこにある黄褐色の湯の花に覆われた巨岩がご神体でなる。出羽三山の奥の院とも呼ばれている。昔から”古来口外禁止”の霊地と崇められ、芭蕉の句にも「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」と詠んだ。神域内は撮影禁止のため、写真はありません。

浜田広介記念館(高畠町)
高畠町出身の浜田広介の童話世界を紹介した見学施設。物語を繰り広げられるマルチビジョンやジオラマなどがある。また、童話本なども自由に閲覧できる。浜田広介は一千編にも及ぶ珠玉の作品を残し、日本のアンデルセンと讃えられる。
宮城県

松島・五大堂(松島町)
松島は、松島湾に浮かぶ八百八島と呼ばれる大小の島々が並ぶ。日本三景の一つで、湾に浮かぶ小島は灰白色の岩の頭に黒松、赤松をのせた趣のある佇まいで、多くの文人に称賛される。五大堂は瑞巌寺の一部で伊達政宗の創建による、素木造、方三間、屋根は単層宝形造。
起源は、坂上田村麻呂の毘沙門堂で、のちに慈覚大師が五大明王を安置したという。

御釜(蔵王町)
約3000年前、中央火口丘の五色岳と馬ノ背外輪山との間にできたもっとも新しい爆裂火口で、その後水が溜まり、今のようになった。熊野岳・刈田岳・五色岳の3峰に抱かれた円形の火口湖で、湖面は緑白色の水をたたえる。平均直径330m、水深24m。湖水は強酸性のため、生物は生息できず、また特殊双温水層をもつなど科学的にも興味深い。
福島県
  
磐梯山
標高1819m。猪苗代盆地の北部に聳える会津の名峰。円錐形をした成層(コニーデ型)火山で、長い裾野を引く姿が美しい。北側は1888(明治21)年の大噴火で吹き飛んだ小磐梯の跡が凄惨な爆裂火口となっている。この時は水蒸気を主とする火山ガスが大量に噴出した水蒸気爆発で、爆発により時速77kmにも及ぶ火山泥流により、440名余りの人名が奪われ、磐梯高原と檜原湖・小野川湖・秋元湖・五色沼などの湖沼群を生み出した。

雄国沼(北塩原村)
猫魔ヶ岳の火山活動によって誕生したカルデラ湖で、標高1089mの高地に広大な湿原をもち、ニッコウキスゲなどの高山植物が咲く。湿原には木道が整備されているので、植物見学などハイキングに良い。周囲4.62km、面積45ha、水深約7mで1957(昭和32)年に国の天然記念物に指定されている。

大内宿(下郷町)
江戸時代の宿場町の面影を今に残す全国でも数少ない貴重な集落として知られ、この村を通る街道は、会津西街道や南山通り、あるいは下野街道と呼ばれ、城下町会津若松と栃木県今市を結ぶ重要な街道だった。現在の国道から少し離れた場所にあり、茅葺き屋根の屋敷が建ち並び、静かな佇まいを残す。


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