関西の旅

兵庫県

神戸市・ルミナリエ
阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂の意で95年から始まった。毎年多くの人が訪れる。この写真はフラッシュを使ってません。

豊岡市・コウノトリの郷公園
このあたりでは、昭和46年迄自然のコウノトリが見られたらしい。今は100匹超迄繁殖に成功し、野生に戻すべく活動が続けられている。ここも屋根がなく、できるだけ自然に近い状態で飼育されている。
  
淡路島・北淡町震災記念公園
阪神大震災の時に動いたと言われる野島断層を保存した記念公園。右の写真は、震災の時にずれた断層を断面で見たところ。この他にも断層の真上に建つ民家が保存されている。貴重な資料施設。

兵庫・水別れ公園
本州に降った雨はやがて川を経て日本海か太平洋に流れる。その境になる所を分水界と呼んでいる。日本は山国で、本州には山脈が連なっているので、分水界はその山の尾根にあるが、ここは平地にあり、標高95mと本州で一番低い分水界である。写真の右側へ流れると加古川を経て瀬戸内海へ。左側に流れると由良川を経て日本海へ。まさに運命の分れ道。

太山寺(神戸市)
太山寺は藤原鎌足の発願により、鎌足の子である定恵和尚が開基とされている。 鎌足の孫の宇合が見た夢の中に薬師如来が現れ、定恵和尚が結縁した土地で和尚が願望を果たせず没したことを示現したという。宇合は薬師如来の教えに従い、霊亀2年(716年)に堂塔伽藍を建立したと伝えられている。ここの本堂は神戸で唯一の国宝に指定されている。宗派は天台宗。

五色塚古墳(神戸市垂水区)
兵庫県最大の前方後円墳。全長194m、前方部幅81m、高さ11.5m、後円部直径125m、高さ18m。4世紀末から5世紀初めに作られたと推定される。被葬者は不明だが、明石地方の豪族と推定されている。。表面にはたくさんの葺石が葺かれ、小石の層総数は223万個あまり(7tトラック400台分)。名前の由来は、古墳時代に淡路の五色浜付近から運んで葺かれたので、このように呼ばれるようになった。一説には古墳の形態が炊飯用の甑(コシキ)に似ているからとも言われている。

箱木家住宅(神戸市)
箱木千年家として地元では知られる。箱木家は地元山田庄の地侍で、応永(1394-1429)頃には宮座の下頭屋役を勤めていたといわれ、この部落の中心的な家柄であった。ダム建設に伴い、現在の場所に移築され、その際、母屋と離れの二棟に分離・復元された。母屋部分はわが国現存最古の民家と思われ、はっきりとした年代はわかっていないが、14世紀頃まで遡る可能性がある。

天神泉源(神戸市)
有馬温泉にある7つの源泉のうちの一つ。菅原道真公を祀る天神社の境内に湧く源泉。泉質は含鉄ナトリウム・塩化物強塩高温泉。地下206mから毎分28リットル噴出し、泉温は98度。食塩泉としては日本一濃度が高い泉源と言われる。

明石大橋(神戸市)
橋長3,911m、中央支間長1,991m。主塔高さ海面上約297mで世界最長の吊り橋。設計段階では1m短い長さであったが、工事中に阪神淡路大震災に遭い、中央支間長が1m延びた。1998年4月完成。吊りワイヤーは時間ごとに照明の色が変わる。

大石神社(赤穂市)
忠臣蔵で有名な大石内蔵助以下四十七義士が祭神。明治天皇の勅旨を契機として、明治33年神社創立が公許され、大石邸長屋門の保存修理から始まり、大正元年11月、四十七義士を祀る神社として御鎮座した。赤穂における四十七義士への思いを感じさせる。

赤穂城跡(赤穂市)
正保2年、浅野長直が常陸国笠間から入封し、近藤三郎左右衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年より13年以上に亘る歳月を費やし、寛文元年に完成。近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城だが、天守台のみ築かれ、天守閣は構築されなかった。明治の廃藩置県後、城塞は取り壊された。
 
ハーバーランド(左写真)(神戸市)
オープンモールの街並みと海の見える広場から構成される複合商業パークです。神戸でも最大規模のグルメ&ショッピングスポットで、レストラン、カフェ、ショッピングに加えて映画館や、街角遊園地などアミューズメント施設も充実している。
メリケンパーク(右写真)(神戸市)
神戸は千数百年の昔から中国大陸や朝鮮半島との交易の窓口として栄えてきた港町で、1867(慶応3)年、神戸港が世界に向けて開港されるにあたり、外国人居留地や舟着場が造成され、メリケンパークの前身にあたるメリケン波止場が作られる。メリケンパークは1987(昭和62)年に神戸開港120年を記念して、メリケン波止場と中突堤を埋め立てて造られた臨海公園で、広さ15.6万m2あり、甲子園球場の約4倍の広さになる。ポートタワー(右写真左の赤いタワー)は1963(昭和38)年神戸開港90年を記念して建造。海洋博物館(右写真の中央)は120周年を記念して1987(昭和62)年に開館した。

ホテルオークラ、メリケンパーク、オリエンタルホテン、ハーバーランドを望む。

1.17希望の灯り(神戸市)
平成7年1月17日発生した阪神・淡路大震災を忘れることなく、慰霊と復興のモニュメントを建設するにあたり、「やさしさ」と「思いやり」、そして「生きている証」としての灯りを灯したいと、追加設置され、被災10市10町を巡って運んだ種火と47都道府県から寄せられた種火を一つにした灯りが灯されています。今も被災10市10町のみならず、遠方の都市まで震災や灯りが結ぶ絆に関連した行事に分灯され続けている。

一億円の金塊(津名町)
平成元年3月にふるさと創生交付金を活用して一億円の金塊(当時の金価格で重量62.696kg)を購入。これまで320万人余りの見学者が訪れた。以来、10年以上が経過し、純金価格の変動により、一億円金塊に「子供」が誕生。重量107.181kgの金塊保有が実現。写真はその金塊を2個に分けて展示しているもの(一個では持ち運び等移動不可能な為)。

静の里公園(津名町)
津名町は、源義経との悲恋で名をとどめる静御前隠棲の地。義経亡き後、名を再性尼と改め、志筑の荘(津名町志筑)に移り住み、隠棲の日々を義経の菩提を弔って送られた。戦乱の世に悲しく強く生きた静御前の徳を偲んで、その霊廟を中心に整備された公園で、静と義経を祀る霊廟の他、史料館、茶室などがある。史料館には一億円の金塊も展示されている。

静御前の墓(津名町)
静の里公園内に眠る静御前の霊廟。左が静御前、右は源義経の霊廟。近くには堀が作られ、錦鯉が泳ぐ。園内には薄墨桜も植えられ、春には淡い花を咲かせている。

伊弉諾神宮(一宮町)
古事記、日本書紀には、すべての神功を果たされた伊弉諾大神が、御子神なる天照大神に国家の統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「霊宮」を構えて余生を過ごされたと記されており、その住居跡に御陵(ミササギ)が営まれ、最古の神社が創始されたのが神宮の起源。祭神はイザナギ大神とイザナミ大神。

夢千代像(温泉町)
映画、TVドラマの「夢千代日記」で有名になった湯村温泉にある像。夢千代日記は、脚本家早坂暁氏が実話をヒントにして山陰の小さな温泉町を舞台に書き下ろした作品。胎内被爆者として、白血病と闘いながら母の残した芸者置屋を経営する夢千代の半生を描いた作品。温泉街にある荒湯の近くに立つ。
大阪府

大阪・天保山
天保山は1831(天保2)年に、安治川や木津川など、大阪城の堀や川の土砂をさらえた時にここに積み上げた人工の山です。その高さ4.5mは、日本一低い山です。三角点(2等)は、1911(明治44)年に設置された。

四天王寺(大阪市)
今から約1400年前、推古天皇元(593)年に聖徳太子が建立された日本仏法最初の大寺。新しく渡来した仏教を支持する蘇我氏と日本古来の宗教を推す物部氏の二大豪族の狭間で、弱冠16歳の聖徳太子は仏教の守護神、四天王に祈願して戦いに勝利した。その報恩謝徳のため、建てられたのが四天王寺である。

住吉神社(大阪市)
摂津国一の宮として古くから信仰される。祭神は、底筒男命(ソコツツノヲノミコト)、中筒男命(ナカツツノヲノミコト)、表筒男命(ウハツツノヲノミコト)、神功皇后(シングウコウゴウ)。全国約2300社余の総本宮。住吉造と呼ばれる本殿の4棟は国宝に指定されている。

大阪天満宮(大阪市)
創建は949(天暦3)年だが、それより以前にこの地には都の守護のための大将軍社が祀られていた。九州太宰府に左遷を命じられた菅原道真公は旅立ちの前にこの地に立ち寄られ、旅路の無事を祈願された。その後、903(延喜3)年道真公が太宰府で亡くなられると、それから約50年後の949(天暦3)年のある夜、この大将軍社に突如、社前に七本の松が生え、夜ごとに梢が金色に光り輝いたと伝えられる(七本松伝承)。時の村上天皇は、これを道真公ゆかりの奇瑞として、当地に天満宮を造営した。今では天神祭りでも知られる。

アテルイの墓(枚方市)
枚方市内、牧野公園内にあり、片埜神社の隣接地にある。公園は二つに分かれており、上公園の中程にある塚がアテルイの墓と伝えられている。以前は、木が生い茂る丘だったが、昭和の時代に今のように削られ、塚の部分だけが残った。

片埜神社(枚方市)
主祭神は、建速須佐之男大神。配祭神は菅原道真、櫛稲田姫命、八嶋士奴美神。交野一の宮。現在の本殿は豊臣秀頼の再建で大阪城鬼門除けの社となり、その後牧郷一の宮と称される。明治42年に久須須美神社、百済王神社を含め近隣の社をほとんど合祀している。

アテルイ処刑の地(枚方市)
平安政府に頑強に抵抗した蝦夷の首長アテルイと副将のモレは、坂上田村麻呂に降伏し、京都を訪れるが、首長の処遇について田村麻呂は朝廷に助命嘆願するが、これを許容されず、河内国杜山にて処刑される。現在、アテルイが討たれた場所は不明だが、日本後紀に「河内国植山」とあり、植山は上山に通じ、この地の旧地名と合致するため、その候補地の一つとされている。
03年6月訪問
京都府

京都・大文字山(京都市)
京都市内を見下ろす高台。夏の送り火で有名だが、市民の手頃なハイキングコースにもなっている。京都市内の展望地としては幾つかあるが、私はここが一番気に入っている。ただ、夜景はまだ見たことがない。。。
京都銀閣寺より徒歩約30分。

元伊勢内宮 皇大神社
祭神は天照大神。十代崇神天皇39(紀元前59)年に「別に大宮地を求めて鎮め奉れ」との皇大神の教えに従い、永遠にお祭りする聖地を求め、まず初めにこの地に移られる。その4年後に皇大神はまたも別の地に遷幸され、54年間に20数ヶ所もの地に移動を繰り返し、ようやく今の伊勢の五十鈴川(伊勢神宮)に落着くことになる。伊勢神宮が移動した跡の地を元伊勢と呼んでいる。

東本願寺(京都市)
1602(慶長2)年本願寺の力を恐れた徳川家康は、教如上人に本願寺の東に寺領を与え、全国の門徒を二分させたのが東本願寺の起こり。たびたびの火災で創建当初の伽藍は失われ、現在の建物は明治28年再建のもの。御影堂は奈良・大仏殿に次ぐ規模の木造建築で高さ37m、幅76mあり、大広間は927畳もの広さがある。
 
梅小路蒸気機関車館(京都市)
1972(昭和47)年に日本の鉄道開業百周年を記念し、貴重な交通文化財である蒸気機関車を末永く後世に伝えるために博物館としてオープンする。大正初期から昭和20年代初期にかけてわが国で製造され、日本各地で活躍した代業的な蒸気機関車C62、D51など18両が保存展示してあり、体験乗車もできる。

金閣寺(京都市)
正式には北山鹿苑寺(ホクサンロクオンジ)金閣。臨済宗相国寺派に属す。1397(応永4)年、将軍職を義持に譲った足利3代将軍義満が、西園寺公経の山荘の跡に「北山殿」と呼ぶ別邸を造って隠棲した。応永15年義満が没するまで政治の中心となるが、彼の死後、義持により禅刹に改められ、義満の法号にちなんで「鹿苑寺」と号するようになった。大半の建物は応仁の乱などで焼失し、北山文化唯一の遺構であった金閣も1950(昭和25)年に一人の学僧によって放火され焼失。現在の建物は1955(昭和30)年に再建されたもので、1987(昭和62)年には金箔が全面張り替えられ、きらびやかな姿を蘇らせた。鏡湖池に望む3層の楼閣の金閣は、初層は寝殿造りの「放水院」。2層目は武家造りの「潮音洞」、第3層は唐風の「究竟竟頂」となっており、3つの異なった様式を見事に調和させている。

由岐神社(京都市)
940(天慶3)年に平安京の北方の鎮めとして創建されたといわれ、祭神は大己貴命と少彦名命。毎年10月22日に行われる有名な「鞍馬の火祭り」は、この神社の例祭で、朱雀天皇が由岐大明神をこの地に移す時に、松明の行列を引き連れた名残といわれる。250本の松明が石段を駆け上がる雄大なお祭り。

鞍馬寺(京都市)
鑑真和上の高弟であった鑑禎(ガンテイ)上人が770(宝亀元)年にこの地に草庵を造り、毘沙門天を安置したのが創始と伝えられる。その後796(延暦15)年に千手観世音を祀り、寛平年間(889〜898)には真言宗の寺になったが、天永年間(1110〜1113)には天台宗に復したといわれ、更に1947(昭和22)年には鞍馬弘教が立教され、当寺が総本山となり、現在に至っている。牛若丸がここで兵法修行したと伝えられている。写真は本殿本堂。

寺田屋(京都市)
幕末、討幕派の定宿であり、1862(文久2)年の寺田屋騒動は有名。また、坂本龍馬の定宿として知られ、おりょうとの恋の宿としても知られる。屋内には刀の傷なども残り、当時の姿をうかがえる。

龍馬の墓(京都市)
霊山護国神社の境内にあり、写真の鳥居奥左側が坂本龍馬の墓、右側は一緒に襲われた中岡慎太郎の墓。多くの花束や供え物が置かれ、人気の程がわかる。ここは維新の志士や第二次世界大戦の戦没者の霊を祀る神社で、この他にも木戸孝允や高杉晋作らの墓が見られる。

日本の鬼の交流博物館(大江町)
大江山連峰の麓、大字仏性寺には、かつて「鬼の住居跡」があったといわれ、鬼の里の拠点として整備されたのがこの博物館。館内では、大江山の鬼伝説紹介や、全国各地の伝統芸能に見る鬼の紹介、世界の鬼面や日本における鬼瓦の推移など鬼にまつわる物を展示している。

鬼獄稲荷神社(オニタケイナリジンジャ)(大江町)
大江山の八合目あたりにあり、ここから眺める雲海は近畿随一と言われる。大江山への登山口にあり、車も数台停められ、休憩所もある。紅葉の頃の景色が美しい。

流れ橋(八幡市)
木津川に架かる八幡市と久御山町を結ぶ上津屋橋の通称で、全長約356.5mあり、現存する木橋では日本最長級。1951(昭和26)年に架けられた。当時、永久橋を架ける予算がなく、普通の木造橋では増水の度に流されてしまう為、水の流れに逆らわない構造の橋が架けられた。それは、木津川が増水して橋板まで水が浸かると橋板が自然に浮かび、八つに分割してワイヤーで繋がれた橋板が吹き流しのように流れるしくみ。水が引けばワイヤーを引っ張り橋板をたぐり寄せて元に戻す。周囲はコンクリート護岸や電柱もないため、時代劇のロケにも使われる。

哲学の道(京都市)
この小道は銀閣寺参道に架かる銀閣寺橋から、南へ琵琶湖疏水の支流に沿って上り、若王寺町までの全長1.6kmの散策路として、市民や観光客に親しまれている。ここは近代日本の代表的な哲学者・西田幾太郎や経済学者・河上肇などがよく歩き、思索にふけったことからこの名が付いたと言われる。桜の名所としても有名。
  
清水寺(京都市)
音羽山清水寺は1200余年前、奈良時代の778(宝亀9)年に延鎮上人が観音の夢告により開山し、この延鎮上人に帰依した坂上田村麻呂が798(延暦17)年に十一面千手観音立像を安置するために仏堂を建てたのが始まりとされる。本堂は1633(寛永10)年に徳川家光によって再建されたものだが、平安時代の伝統的な様式によっており、正堂と礼堂から成り、礼堂の前面は「清水の舞台」といわれる懸崖造りで、江戸時代を代表する建築物となっている。

アテルイ・モレの碑(京都市)
アテルイ、モレは平安律令政府の東北征服戦争に対してゲリラ戦で頑強に抵抗した蝦夷(エミシ)の首長と副将で、征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍に帰順し、両雄の武勇と器量を惜しみ、戦後の蝦夷経営に登用すべく朝廷に助命嘆願したが、許容されず両雄は河内の国で処刑された。この碑は清水寺の境内南苑に建ち、平安建都1200年を期し、1994年に建立した。

高台寺(京都市)
豊臣秀吉の正妻、北政所(ねね)が秀吉の菩提を弔うために1605(慶長10)年に開創されたお寺。造営に際しては、徳川家康の多大な財政援助があり、寺観は壮麗を極めたといわれるが、江戸時代にたびたびの火災に遭って焼失してしまい、現在残っているのは開山堂、表門、観月台などで、国の重要文化財に指定されている。

同志社大学・クラーク記念館(京都市)
同志社大学今出川キャンパスにあり、同志社のシンボル的存在の建物。アメリカのクラーク夫妻の亡き息子のメモリアルホールを造って欲しいとの願いで1893(明治26)年に竣工した建物。大学内にはこのクラーク記念館を初め、国の重要文化財に指定されているレンガ造りの建物が幾つか存在する。

八坂の塔(京都市)
霊応山法観寺内にあり、高さ約40m。本瓦葺きの五重塔で飛鳥時代の渡来人八坂氏建立といわれる。訪問した時、八坂の塔はライトアップされていたが、これは近くの商店街のおじいさんが自費で行っているもので、亡き奥さんの弔いの意味があるらしい。

平安神宮(京都市)
1895(明治28)年に平安遷都1200年を記念して、平安京大内裏の正庁を模して造られた。本殿の裏に広がる広大な神苑は、東苑、中苑、西苑、南苑に分かれた回転式遊苑で、明治・大正期の庭園の傑作とされる。祭神は桓武天皇と孝明天皇を祀る。時代祭のゴールにもなる。

広沢池(京都市)
音戸山の南麓にある灌漑用の溜池。平安時代中期(永祚元年)に宇多天皇の孫寛朝僧正が北西の朝原山に遍照寺を建立した時に造られた池と伝えられ、遍照寺池とも言われる。
滋賀県

佐川美術館(守山市)
比叡山を望む琵琶湖畔にある美術館。佐川急便創業40周年記念に開館。世界的に著名な日本画家・平山郁夫の作品と彫刻家の佐藤忠良の作品を常設展示している。作品もそうだが、大胆に水を配し、数々の建築賞を受賞した建物も一見の価値がある。

甲賀流忍者屋敷(甲南町)
甲賀武士53家の筆頭、望月出雲守の住宅として元禄年間(1688〜1703)に建築された。外見は一般的な日本建築の住宅そのものだが、内部には侵入者から身を守るためのさまざまな工夫を凝らしている。
奈良県

石舞台古墳(明日香村)
全長19.1m、高さ7.7m、重さ75tonを超えると推定される日本最大級の横穴式石塞。30数個の巨石を積み上げて作られている。「日本書紀」の中で蘇我馬子が葬られた”桃原墓”だという説が有力。玄室は高さ4.7m、奥行き7.7m、幅3.6mで、長さ11.5mの羨道がある。もとは土に覆われた上円下方墳だったらしいが、現在のように石が剥き出しの状態になった理由は謎。昔、月夜に狐が美女に化けて、石の上で舞を舞った伝承より、その名が付いた。

橿原神宮(橿原市)
畝傍山の東南・橿原の地に、第一代神武天皇が宮を建てられ、即位の礼を行われたという日本書紀の記事から、その宮址に明治3年に創建される。祭神は神武天皇と、媛蹈鞴五十鈴媛命 (ひめたたらいすずひめ)皇后。
 神武天皇は、皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に降られた日向(ひゅうが)国高千穂の宮におられたが、天下の政治(まつりごと)を行うべくはるばる東遷の途に立たれた。途中幾多の困難に遭われたが、ついに大和の国を中心とした中つ国を平定され、畝傍(うねび)の橿原の宮において即位の礼をあげて、国の基をたてられた。

飛鳥寺(明日香村)
596(推古4)年に蘇我馬子によって建てられた本格的伽藍配置の日本で最初の大寺院。創建時は、塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し、その外側に回廊をめぐらした伽藍配置だった。寺域は東西約200m、南北300mある広大な寺院だったが、現在は本堂が残されるのみ。寺には蘇我氏の時代に作られた国産の飛鳥大仏(高さ4.85m)がある。

谷瀬の吊橋(十津川村)
昭和28年に800余万円を投じて架設される。長さ297.7m。川からの高さ54m。歩道専用の吊橋としては日本一。川のこちら側「上野地」と川向かいの「谷瀬」の集落を結ぶための生活道路で、以前は丸太橋が架けられていた。度重なる洪水の度に流失するため、昭和29年に村落の住民一戸あたり20万円の出費をし、村の協力を得てこの吊橋を完成させた。
 昔、吊橋の下あたりの川原には集落があった。ところが、明治22年に大水害が発生し、当時の被害者は村を離れ遠く北海道に移住した。その場所が今の新十津川町です。

今井町(橿原市)
中世の末に一向宗門徒が中心となり寺内町として形成された。その後、約400年江戸時代からの伝統的な町家のたたずまい、街並みを残す全国有数の街並み。平成5年3月には国の重要伝統的建造物群保存地区に指定される。

猿橋(十津川村)
川の上に張ったワイヤーロープに一人乗りの屋形を吊り下げた、十津川村特有の人力ロープウェイ。乗り手が引き綱を手繰り寄せながら対岸へ渡る仕組み。乗ってみると意外と怖い。
和歌山県

熊野大社 本宮(本宮町)
熊野三山(本宮、新宮、那智)の首座として熊野信仰の総宮として仰がれている。元は、熊野川の川洲に建立されていたが、大洪水で本宮全体が流され、明治時代に現在の場所に移転された。元の場所はその跡地だけが残る。社殿は国指定重要文化財。

熊野那智大社(那智勝浦町)
那智山の中腹、標高500mの地点にある。石段を登りつめ、鳥居をくぐると境内に出る。写真にある朱塗りの拝殿の後ろに熊野造りの社殿が5棟並んでいる。主祭神は第四殿に祭る熊野夫須美(クマノフスミ)大神。境内右手にある樹齢500年余の大楠は、平重盛の手植えによるものと伝えられている。根元に空洞があり、胎内くぐりが出来る。

那智滝
那智山中には4本の渓流があり、そこには合計48本もの滝がかかっている。それらを那智四十八滝と称し、単に那智滝ともいう。それらにはそれぞれ神仏よりとった名前が付けられ、このうち写真の滝が一ノ滝で、那智大滝とも呼ぶ。滝幅は13m、高さは133mある。

潮岬灯台(串本町)
潮岬の南西の断崖上に立つ高さ22mの白亜の灯台。現在の灯台は1878(明治11)年建立だが1870(明治3)年初点灯という古い歴史を持つ。灯台のさらに先端には潮御崎神社がある。

潮岬(串本町)
本州最南端の地で、北緯33度26分、八丈島とほぼ同じ緯度にあたる。砂州によって紀伊半島と結ばれた陸繋島(りくけいとう)で、全体が高さ60m前後の台地をなし、周囲は多くの入江が海食崖となって海に落ち込んでいる。観光タワー前の広い芝は望楼ノ芝と呼ばれ、かつて海軍の望楼があったところから名付けられた。

古座川の一枚岩(古座川町)
高さ100m、幅500mの大きさを誇る巨岩で、古座川峡谷の中でも一際威容を見せる。凝灰岩質の石英祖面岩が風食されてできたもので、国の天然記念物に指定されている。周囲は自然公園として整備されており、桜やせっこく、紀伊じょうろうほとどぎすなどの花を楽しめる。01年11月訪問。
  
高野山(高野町)
高野山はおよそ1200年前に弘法大師によって開かれた真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山。標高およそ900mの山の上の盆地に壇上伽藍と称する聖地が広がる。高野山の総本山は金剛峯寺(左写真)で、高野山全体が金剛峯寺の境内にあたる。名前の由来は「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」という経典から「この山は永遠に守り続けなければならない最上最尊の峯」という意味を込めて金剛峯という名前を付けた。また、杉の木の茂る奥の院には、太閤秀吉から太平洋戦争の英霊までさまざまな人々のお墓が建ち並ぶ。今も大勢の信者や四国八十八ヶ所の霊場を巡ったお遍路さんたちが日本のみならず外国からも参拝しており、世界遺産にも登録されている。
三重県

大丹倉(熊野市)
高さ300m、幅500mにも及ぶ大絶壁。この辺りの熊野地方の高地は、熊野酸性岩と総称される火成岩でできているが、第三紀の宮井層の上に三回にわたり噴出したもの。大丹倉は第一回の火山活動によりできたもので、黒雲母硅長質石英粗面岩より成る。この火成岩は角柱を縦に積み重ねたような柱状節理が発達している。昔から修験者の聖地であった。今も頂上部まで行くことが出来、頂上部からの展望は遙か遠くの山並みを見渡せる。01年11月訪問。

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